コラム
第1回 結論を、先に置かない——死刑と、議論の質について
2026年8月21日
2024年、「日本の死刑制度について考える懇話会」という会議体が一年をかけて議論した。前検事総長、元警察庁長官、犯罪被害者支援に携わる委員、労働界、経済界、宗教界、与野党の国会議員——存置に傾く委員を含む16名。座長は刑法学者の井田良教授。そして、この懇話会の設立を呼びかけ、事務局を務め、経費を負担したのは、日弁連である。
はじめに断っておく。このコラムは、死刑の存廃について立場を示さない。論じるのは、意見の割れる主題について組織が語るときの、結論の置き場所——議論の器の作り方である。
懇話会の話に入る前に、座長の仕事を見ておきたい。その2年前の2022年、井田教授は『死刑制度と刑罰理論——死刑はなぜ問題なのか』(岩波書店)を刊行している。著者の経歴を、少し丁寧に紹介しておきたい。1956年生まれ。慶應義塾大学法学部で長く刑法学を講じ、その後は中央大学大学院法務研究科で教壇に立った。現在は両大学の名誉教授である。ドイツ刑法学との縁が深く、ケルン大学で法学博士の学位を取得し、ドイツの二つの大学から名誉博士号を、ドイツ連邦共和国から功労勲章を受けている。国内では、法務大臣の諮問機関である法制審議会の会長を2021年から務め、刑事法改正の中枢に身を置いてきた。2023年には紫綬褒章。要するに、体制の外から死刑廃止を叫んできた運動家ではない。刑事立法の責任ある場所を歩いてきた、正統派の学者である。
その人がこの主題で書いた本である。書名だけを見れば存廃いずれかを説く本かと思われるかもしれないが、そうではない。存置論と廃止論は、実は同じ刑罰理解——被害の重さへの反動を刑罰の駆動力とする考え方——を無自覚に共有しており、その前提を点検しないかぎり議論は永遠に噛み合わない。本書が示すのは、そういう診断である。
著者の筆は、双方に等しく厳しい。廃止論の看板とされてきた「死刑の抑止力に科学的証明はない」という論法に対しては、同じことは罰金刑や自由刑にも当てはまるのに死刑だけを論難するのはフェアでない、と退ける。著者自身の結論はどちらかといえば廃止に傾いているのに、である。自分の結論に都合のよい論拠でも、弱いものは弱いと言う——この態度が本書の背骨であり、その先に、こういう一節がある。
「議論は、それが政治的議論であれ、学術的議論であれ、たとえ意見の最終的な一致を見ることがなくても、対立する立場にある者が相互にその論敵から何かを学び、議論の終わった後には開始前よりも認識を深め合い、お互いがより賢くなっているときにはじめて、それを建設的・生産的議論と呼ぶことができるであろう」
(死刑制度と刑罰理論p.178)
自分の立場を最初から固定して一ミリも動かさず、信じるところをぶつけ合うだけなら、議論をする意味はそもそもない、とも書かれている。著者の関心は、存廃の結論そのものより、この国ではなぜ死刑について冷静で建設的な議論ができないのか、に向かっているのである。
本書の中身にも、少し立ち入っておきたい。井田教授によれば、存置論も廃止論も、被害の重さへの反動を刑罰の駆動力とみる伝統的な理解の上で争っており、この土俵にとどまるかぎり、被害感情の充足と人権保障との対立は永遠に解けない。井田教授はこれに対して、刑罰が守っているのは「人を殺してはならない」という規範の効力だ、とする理解を対置する。この理解に立つと、死刑は「公益のために生命を犠牲にする制度」という内実を現し、個人を基本に置く憲法の下でその正当化は根本から問い直されることになる。そして、運用の現実についてはこう書く。
「誤判による取り返しのつかない執行の可能性と、それを避けんとすることがゆえの、執行までにかかる時間の長さ、その過程で確定者を執行の恐怖にさらし続けるという人権侵害――これこそが日本の死刑制度を正当化することを困難にしている決定的な事柄というべきである」
(死刑制度と刑罰理論p.209)
理論と運用の両面から、死刑が「なぜ問題なのか」を、結論を急がずに積み上げていく。そういう本である。
もう一つ、本書には弁護士会の読者として素通りできない観察がある。被害者保護の思想の高まりとともに、いまでは弁護士の中からも死刑制度をはっきり支持する見解がしばしば表明されるに至っている、という指摘である。会内の意見分布は、止まっているどころか、動いている可能性がある。このことは、後の話につながる。
話を、冒頭の懇話会に戻そう。
この器が、初めから信頼されていたわけではない。委員に加わった犯罪被害者の遺族は、後の回で、死刑を廃止して終身拘禁刑へと導く結論ありきの懇話会に出席することは、反対の意見を持つ自分にとって大変勇気のいることだった、と率直に振り返っている。日弁連が事務局を務める以上、廃止運動の延長と見られる素地は、確かにあったのである。
だが、公開されている議事録を読むと、井田座長の運営は、著書の流儀そのものに見える。初回に、こう述べて始めている。
「この懇話会でも、そういう意味で、最初から自分の立場を固定して臨むのではなく、お互い自らの知見を提供しあう、また、お互いから学びあうということを通じて、死刑をめぐる議論をネクストステップへと引き上げていくことができれば、と思っております」
(懇話会第1回議事録)
一年間の議事も、多彩である。誤判・えん罪の事例研究、死刑廃止を経験したドイツの大使や研究者の講演、裁判員裁判における死刑量刑の実情、憲法学者の検討、世論調査の設計と解釈の吟味——存廃の主張をぶつけ合うのではなく、判断に必要な知見を一つずつ積んでいく構成である。
とりまとめの局面で、多数意見として「廃止の方向」を総論に掲げる案が出たときには、井田座長はこれを推さなかった。もともと廃止論者を集めた「出来レース」と受け止められかねない、という理由である。そして、こう述べた。
「死刑を廃止すべきだという結論をとることが予想されない委員が複数いる中で、死刑にはいろいろな問題があるので、きちんと真剣に検討すべきである、国会なり内閣の下できちんと検討せよ、という提言をするのは、相当インパクトがあると思うのです」
(懇話会第10回議事録)
実際、存廃の方向づけは全員の一致を得られず、報告書は、全員が一致できる範囲——現行制度には制度上・運用上の問題があり、国会または政府の下に検討の場を設けよ——に絞り込まれ、2024年11月、全員一致で公表された。理事会への報告でも、死刑廃止を提言することも可能な状況ではあったが全員一致できる箇所を取りまとめた、全て全員一致で同意できるものとなった点に大きな意義がある、という趣旨の総括が語られている(2024年度第8回)。
結論を先に置かなかったことで、かえって重い文書になった、と思う。存置に傾く委員の名がこの報告書に並んでいることこそが、その説得力の源泉だからである。著書が理論でやってみせたことを、懇話会は手続でやってみせた——そう評したい。
ひるがえって、その懇話会に事務局と経費を提供した日弁連自身の内部には、「死刑廃止及び関連する刑罰制度改革実現本部」という常設組織がある。2016年の人権擁護大会宣言(福井宣言)を受けて、翌年設置された。名称に「実現」の二字が入っている。実現すべき結論は既に決まっており、残る仕事はその実現である、という組織設計である。
起点となった宣言に至る道は、平坦ではなかった。宣言の半年前、検討状況の報告を受けた理事会では、二日間にわたって理事との激しい意見交換があった。国民の8割が存置を支持する中で今言うのは時期尚早ではないか、日弁連が全社会的な議論を起こせたのか分からないまま廃止へ進むのはおかしい、廃止が善で存置が悪という前提では国民はついてこない——そうした趣旨の発言が続いたことが記録されている(2016年度第1回)。それでも宣言案は理事会にかけられ、審議には率直な異論が残った。
「会内合意が不十分であるから、宣言して議論を深めていくというのは順序がおかしい。会内合意があって宣言をして進めるのが民主主義の基本であるから賛成できない」
(2016年度第5回)
採決は賛成68・反対10・棄権6。およそ8割の賛成は軽くないが、全会一致でもない。しかも本部の設置自体、平坦ではなかった。設置を審議した理事会では、犯罪被害者支援委員会から「死刑廃止」を打ち出した本部の設置には賛成できないとの意見が出て目的規定に「犯罪被害者の実情に配慮しつつ」の文言が加えられたこと、法教育委員会は死刑廃止の方向性を決めた上での教育はしないとして委員の推薦から外れたことが、担当副会長から説明されている(2016年度第11回・第12回)。会内の亀裂を抱えたまま、本部は生まれたのである。
その後の活動は精力的である。全国の弁護士会を一つずつ回る意見交換のキャラバン。歴代法務大臣への面談要請。国会議員要請は、87人の議員を回った年度もある。パンフレット、毎年のシンポジウム、ローマ教皇庁への訪問——。機関決定を実行しないほうが無責任だ、という理は確かにある。
だが、理事会の議事概要を年度ごとに読み進めると、気づくことがある。設置当初は理事との質疑が記録されていた本部の全体会議報告が、2019年度以降、「本部資料に基づき説明を受けた」という趣旨の定型の一行で記されることがほとんどになるのである(この書式は、実現本部に限らず日弁連の各本部の全体会議報告に共通するもので、実現本部だけの現象ではない。それでも、あの緊張がこの一行の下に見えなくなったことは確かだと思う)。異論が消えたわけではない。場所を変えて、時折噴き出している。
「1月の世論調査でも依然として8割の国民が死刑制度を支持している。そこに民意があるとすれば、この活動は国民主権に反した活動だということになる。……そのような会員が納めた会費をこの活動に使用する合理性を説明願いたい」
(2020年度第3回)
「議論はするべきだと思うが、日弁連の総会では決議されていないという状況の中で、死刑制度廃止が日弁連の多数意見と言っていいのか」
(2023年度第10回)
後者への執行部の答えは、人権擁護大会で宣言し、理事会でもそれを前提に代替刑を決議した、しかるべき手続を経た意見である、という趣旨だった。手続論としては、そのとおりだと思う。だが、宣言からやがて10年。この間、死刑について会内の意見分布を測り直した形跡は、少なくとも議事概要のうえには見当たらない。
70年余り前の先例を思い出したい。死刑廃止論は、弁護士会にとって新しい主題ではない。明治の末には、本サイトの読み物第1部にも登場する雄弁家・花井卓蔵が、早くも死刑廃止を唱えていた。ただし、それは一人の弁護士の主張である。弁護士の団体が、組織としてこの問題にどう向き合うかが最初に試されたのは、戦後の1953年——高松弁護士会の有志が死刑廃止の建議を日弁連に出したときだった。このとき日弁連がまずしたのは、賛否の表明ではなく、全会員5,717名への意見照会である。回答したのは半数弱。廃止を可とする者16.7%、否とする者28.9%。建議は採択されなかった。測って、測った結果に従う。その手続の記憶は、「実現」の日常からは、ずいぶん遠くにあるように見える。
こうして並べると、一つのねじれが浮かび上がる。日弁連は、社会に向けては、結論を先に置かない器を自ら設計し、存置派を含む全員一致の報告書という成果を得た。存置に傾く委員まで名を連ねた全員一致の報告書は、廃止一色の提言よりも重く受け止められる——結論を先に決めない器のほうが、かえって強い説得力を生む。そのことを、懇話会を最も近くで支えた日弁連自身が、いちばんよく見てきたはずである。ところが会内に向けては、結論を名称に刻んだ本部が、合意の厚みを測り直さないまま走り続けている。外に向けては懇話会の流儀、内に向けては「実現」の流儀。同じ組織の中に、二つの語り方が同居している。
気になる場面もある。日弁連がこの懇話会に事務局として参加することの是非を審議した理事会では、会長が、懇話会をリードしすぎないこと、日弁連との棲み分けを意識することを求める一方で、実現本部の事務局長からは、秋には死刑制度に関する世論調査の実施時期が来る、提言がなされれば世論も変わり得る、という見通しも語られていた(いずれも2023年度第10回)。結論を置かない器を、結論のための道具と見る発想が、ここには顔をのぞかせているように見える。懇話会の流儀と「実現」の流儀のどちらが本音なのかと、意地の悪い読み方をされても仕方のない場面ではないだろうか。
誤解のないように言えば、求めたいのは本部の解散ではない。人権擁護大会の正規の手続を経た宣言であり、執行機関がそれを推進するのは組織の筋だからである。求めたいのは、懇話会に示したあの見識を、自らの会内にも向けることである。
ここで、問いを一つ手前に戻したい。そもそも強制加入団体である弁護士会は、「政治的な問題」にどこまで関与してよいのだろうか。
法の答えは、思いのほか寛容である。最高裁は、税理士会が政治献金のために特別会費を徴収したことを目的の範囲外としたが(南九州税理士会事件・平成8年)、司法書士会の震災復興拠出は目的の範囲内とした(群馬司法書士会事件・平成14年)。日弁連の法案反対決議についても、会員に賛同を強制する効力はないから思想良心の自由を侵害しない、とした裁判例がある(東京地裁平成4年1月30日判決)。意見を表明すること自体が違法とされた例は、見当たらない。
だからこそ、問題は法律論では終わらない。語ってよいことと、語るべきこととは別であり、語るべきことの中にも、語り得る強度の差がある。手がかりは、対象との距離ではないかと思う。刑事手続や司法アクセス、弁護士自治といった、司法と人権の核心に近い問題ほど、法律家団体が語る正統性は強く、語らないことがかえって職責の放棄に近づく。逆に、国民の価値観や政策の選択そのものに近づくほど、脱退できない会員の名を使う重みが増し、抑制が求められる。大づかみには、そう整理できるように思う。
この整理には、百年前の実例がある。大正7年の米騒動で、日本弁護士協会は実行委員50名を全国に散らし、事実を調査し、法に照らして軍隊の使用と言論統制を批判した。政府を擁護するでもなく、騒擾を煽るでもない。当時の法律専門紙『法律新聞』は、「独り弁護士協会が、官民孰れにも偏せず、貴賤都鄙執れの階級にも党せず、最も公平なる立場に処して」事実を精査したと、この調査を高く評した(この経緯は本サイトの読み物・第1部第3話に書いた)。米騒動は、当時のどの主題にも増して「政治的」な事件である。それでも弁護士会が社会の信頼を得たのは、結論の宣明ではなく、事実の調査と法律論で語ったからだった。偏らないから、信頼される。関与の可否よりも、関与の仕方が信頼を決める——百年前の先人が示したのは、その順序ではないかと思う。
死刑の難しさは、この物差しの上で位置が定まらないことにある。国家が生命を不可逆的に奪う制度である以上、究極の人権問題として核心に置く読み方があり得る。他方で、存廃の判断には国民の価値観と刑事政策の選択が深く関わり、世論調査では存置意見が多数を占め続けてきた。冒頭に紹介した書はまさに、この問題が「感情か人権か」の単純な二分法で裁けないこと、刑罰とは何かという理論的前提にまで降りなければ議論が噛み合わないことを示した本である。人権問題と見るか、価値の選択と見るか——その性質決定自体が、会の内外で割れている。そして、性質決定が割れている問題で「語る資格」の判定を誰かの確信に委ねることは難しい。だからこそ、会内の合意を測るという手続そのものが、何より重くなるのではないだろうか。
語り方の選択には、もう一つの重みがある。2017年、日弁連と各地の弁護士会の会長声明を非難して、全国21の弁護士会に800人を超える者から大量の懲戒請求が申し立てられた。個々の弁護士の非行を問うものではなく、会の意見表明そのものへの攻撃であり、使われた武器は、弁護士自治の中枢装置である懲戒請求権だった。会が「偏っている」と見なされたとき、攻撃は自治の急所に来る。何を、どの名義で、どれだけの合意を背に語るか——その選択は、会の見識の問題であると同時に、自治を守るリスク管理の問題でもあるように思われる。
つまり、死刑というひとつの主題の中にも、会が迷いなく語れる領域と、合意を測り直さなければ語る資格が揺らぎかねない領域とがある。死刑求刑事件の弁護態勢、再審手続、死刑確定者の処遇——手続と救済の領域で、弁護士会は現に機能しているし、そこで語ることを疑う者は少ないだろう。先の書も、存廃のいずれの立場をとるかにかかわらず、現行制度の運用の改善については合意を形成することが可能なはずだと説いていた。揺らぐのは、存廃という価値の選択を、全会員の名で「実現」の対象に据え続ける部分である。
実は、結論を先に置かない器の先例は、一弁にある。2012年、日弁連が各弁護士会に「死刑廃止について検討する組織」の設置を要請したとき、一弁が設けたのは、廃止を推進する組織ではなかった。会長の諮問は「死刑制度に対する問題全般につき討議、答申する」。設置された死刑に関する委員会は、廃止論・存置論の「結論にのみ拘泥することなく」研究する方針を掲げ、2年間の月例研究会を経て、2014年、論文集『死刑を考える』を答申として刊行した。廃止の国際的潮流を検証する論文の隣に、委員長自身の筆になる「死刑制度廃止論についての疑問」が並び、被害者の視点も、終身刑による代替論も、同じ目次に収められている。その一編は、こう書いていた。
「国民・会員の間で意見が大きく分かれている問題、個々の会員の思想信条、イデオロギー、信仰等によるところが大きく、理論上の解釈で解決することが困難な問題等については、日弁連及び単位弁護士会は極力意見表明を差し控えるべきである」
(松村龍彦・死刑を考えるp.156)
福井宣言の2年前、懇話会の10年前に、一弁は単位会として、結論を先に置かない器を現に作っていた。懇話会の設計図は、この延長線上にあると読むこともできるように思う。
この線を延ばせば、一弁が単位会として取りうる道は、いくつも考えられる。執行のたびに会長声明を出すかどうかを、慣行としてではなく自前の議論で決めること。会内の意見分布を、単位会として独自に調べ、結果を公表すること——70年前に日弁連自身がやってみせた、あの照会である。存廃の宣明には慎重を保ちつつ、弁護態勢や再審手続、死刑確定者の処遇といった手続と救済の領域に、単位会の資源を重点的に注ぐこと。そして、『死刑を考える』の続きを書くことである。答申から10年余りが過ぎ、裁判員として死刑求刑事件に向き合った市民の経験、再審をめぐるこの10年の展開、終身刑論の現在地と、織り込むべき新しい材料には事欠かない。いずれも、日弁連と距離を置くためではなく、語り方の違いで貢献するためのものである。
宣言から10年の節目に、日弁連がなすべき仕事は、それほど複雑ではないのではないか。会内の意見分布を、70年前の照会のように、もう一度測ること。実現本部の10年を、活動の列挙ではなく検証として総括し、報告すること。測り直した結果がどちらに出ようと、その手続を踏んだ意見表明であってこそ、脱退の自由のない会員の名を使う重みに耐えられるはずだからである。
冒頭に引いた、建設的な議論の定義に、最後にもう一度戻りたい。議論が終わったとき、対立する者同士が、始める前より賢くなっているか。宣言の日から10年、日弁連の会内は、死刑について、あのときより賢くなっただろうか——議事概要の定型の一行は、この問いに答えてくれない。
出典・注記
- 本コラムは死刑制度の存廃について立場を示すものではなく、意見表明に至る手続と議論のあり方のみを論じた。発言等の引用の末尾の( )は出典を示す。
- 死刑制度と刑罰理論=井田良『死刑制度と刑罰理論——死刑はなぜ問題なのか』(岩波書店・2022)。頁は刊本の印刷頁による。引用はp.178。抑止力論への評価はp.183-188、著者自身の結論が廃止に傾くことはp.167-169・216、弁護士の中にも死刑支持の見解が広がっているとの観察はp.46、存廃いずれの立場でも運用の改善については合意可能とする議論はp.210による。実害への反動を駆動力とする伝統的理解と規範の保護を対置する本書の枠組みはp.45-63・129-156、「公益のために生命を犠牲にする制度」の規定はp.167-169、誤判と執行までの長期化に関する引用はp.209による。
- 井田良の経歴(慶應義塾大学名誉教授、中央大学大学院法務研究科教授を経て同大学名誉教授、ケルン大学法学博士、ドイツの2大学からの名誉博士号とドイツ連邦共和国功労勲章、2021年10月からの法制審議会会長、2023年紫綬褒章)は、researchmap・法務省の法制審議会公表資料(第192回会議・2021年10月21日互選)等の公開情報による。
- 懇話会=「日本の死刑制度について考える懇話会」(井田良座長・2024年)。日弁連が設立を呼びかけて事務局を務め、経費を負担したこと、委員16名の構成は、同懇話会の公開資料(設立趣意・運営についての申合せ・委員名簿)による。引用は第1回(2024年2月29日)および第10回(2024年9月11日)の公開議事録による。被害者遺族の委員の発言(結論ありきの懇話会への出席は勇気が要った旨)は第6回(2024年7月4日)の公開議事録による。報告書が存廃の方向づけを含まず全員一致で公表されたこと(2024年11月13日・第12回)は、懇話会公開資料および理事会議事概要(2024年度)の報告による。
- 理事会議事概要=日弁連理事会議事概要(速報)。速報メモであり確定議事録ではない。発言者個人は特定せず、役職者の公式発言に限り役職名を記した。参照した議事概要は2025年12月開催分までである。
- 実現本部の設置経緯(2017年6月1日・死刑廃止検討委員会を廃止して設置、犯罪被害者支援委員会の異論と目的規定への文言追加、法教育委員会が委員推薦から外れたこと)は理事会議事概要(2016年度第11回・第12回)の担当副会長の説明による。本部の全体会議報告が定型の一行で記される書式は、他の本部の報告にも共通するものである。
- 実現本部の活動(全弁護士会キャラバン、歴代法務大臣への面談要請、国会議員87人への要請、パンフレット、シンポジウム、ローマ教皇庁訪問等)は理事会議事概要(2017〜2024年度)の各報告による。
- 2016年の人権擁護大会宣言の理事会採決(賛成68・反対10・棄権6)は理事会議事概要(2016年度第5回)による。宣言の内容と経過は『日弁連七十年』(日本弁護士連合会・2019)p.182-184を参照した。
- 南九州税理士会事件(最高裁平成8年3月19日判決)・群馬司法書士会事件(最高裁平成14年4月25日判決)は公刊判例による。東京地裁平成4年1月30日判決(控訴審も維持)への言及は『日弁連七十年』p.184による。
- 大正7年の米騒動における日本弁護士協会の現地調査(実行委員50名・三部会)と『法律新聞』(大正7年9月10日付「法政一瞥」欄)の評は、『東京弁護士会百年史』(東京弁護士会・1980)p.335-336所引による。詳細は読み物・第1部第3話「官民孰れにも偏せず」を、関連する考察は第3部第4話「官民孰れにも偏せず、再び」を参照。
- 2017年の大量懲戒請求(全国21弁護士会・800人超からの申立て)は『日弁連七十年』p.248による。
- 死刑の存置意見が世論調査で多数を占めてきたことは、内閣府「基本的法制度に関する世論調査」の各回結果による。
- 花井卓蔵ら明治以来の廃止論を含む弁護士会の死刑議論の歴史、1953年の高松弁護士会有志の建議と日弁連による全会員5,717名への意見照会(回答率46.6%・廃止可16.7%・否28.9%・建議不採択)は、死刑を考える所収・湯山孝弘「日弁連における死刑制度に関する議論の報告」p.11-12による。
- 死刑を考える=第一東京弁護士会死刑に関する委員会編『死刑を考える』(第一東京弁護士会・2014)。委員会設置の経緯(日弁連の平成24年4月6日付「死刑廃止について検討する組織の設置について(要請)」、会長諮問「死刑制度に対する問題全般につき討議、答申する」、「結論にのみ拘泥することなく」研究する方針、平成24年9月〜26年7月の月例研究会)は同書巻頭「発刊に当たって」p.1-2による。引用した論考は同書所収の松村龍彦「弁護士会の死刑制度に関する意見表明などについて」p.148-159。同委員会の各論文は委員が個人の名において執筆したもので、引用部分は同論文の見解である。
- 「再審法改正実現本部」は別の組織であり、本コラムの対象ではない。